藤村新一 石器捏造 毎日スクープ(2000年11月5日)の舞台裏

北海道支社の報道部は所帯が非常に小さくて、考古学報道の専門記者がいるわけでもないし、私を含めて取材に当たった記者はみんなまったくの門外漢だった。藤村という名前を聞くのも初めてで、「藤村?Who?」という感じだった。

端緒は8月25日だった。出勤すると報道部長が自分のパソコンを開いていて、私を見るなり「ちょっとちょっと」と手招きする。「何だろう」と思って行ったら、「これ読んでみろ」とメールを見せる。某通信部の某記者からのメールだった。何が書いてあったかというと、「1面トップになるかもしれないネタですが」とタイトルになっていて、「このところ全国で旧石器時代の年代がどんどんさかのぼる発見が相次いでいますが、これは眉唾らしいとの情報です。なるほど埼玉県の長尾根、新十津川町の総進不動坂、宮城県の上高森、福島県の一斗内松葉山、埼玉県の故事か坂と日本の旧石器の時代しを塗り替えるような発見であることはご存知のとおりです」って、別に全然こっちは存じなかったんだけどそして、「これは藤村新一さんが手がけた発掘調査で、しかもすべて本人が第一発見者だそうです。どこかの新聞記事では藤村氏をもって『神の手』と評しているとのことです」というようなことが書いてある。研究者がいろいろ首をかしげているという話もあったが、読んだ私の感想としては、「へー」という、ただそれだけのことだった。某記者からのアドバイスは、8月28日から北海道の新十津川町で総進不動坂遺跡の調査が始まり、そこに藤村さんがやってくる。調査員を装って潜りこめば、石器を埋める場面を押さえることが出来るのではないか、ということだった。3日前にいきなりアルバイトを装って潜入するのは無理だと思ったが、報道部長が「どう思う?」と私に意見を求めたんで、「まあ、本当だったら大変ですね」というぐらいの、あまり気の無い返事をしたと思う。と、突然その報道部長が「俺、最近運がいいんだよな。モノになるような気がする」と言う(笑い)。「取材班つくろう。お前、キャップな。デスクQ、2人で打ち合わせて人選して」と、いきなり言われた。それでQデスクと喫茶店に行き、「人選どうしようか」と。どうしようかといっても北海道報道部には一線記者は10人しかいない。普通の県庁所在地の支局の人数ぐらいだ。デスクの言葉を今でも覚えているが、「俺はこれは筋悪だと思うな」と。私も「そうだよね。ほかにやるべきことたくさんあるよね」というような会話をした。「でもまあ、部長がやれって言うんだから、とりあえず総進不動坂で狙ってみようか」と、記者を3人選んだ。道庁と道警、市役所担当から1人ずつ。写真記者1人と私、Qデスクを入れて計6人の取材班が立ちあがった。

その夜さっそく会議を開いて、取材の進め方などを相談した。とりあえず新聞のスクラップでも読むかということと、藤村さんに関する資料を集め、どういう取材先があるのか、関係者のリストアップをしようといったことを打ち合わせた。現地の下見にも記者を出した。札幌からわずか1時間のところだが、隠し撮りするポイントがあるかどうかなど立地条件が分からなかった。藤村さんがいつ来るかという日程の確認もして、別の記者を関係者の取材に当たらせた。インターネットは便利なもので、何か無いかと思って調べたら、長野県に住んでいる発掘コンサルタントのSさんという方が、ホームページで非常に面白い話を載せていた。「前期・中旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」というタイトルで、藤村さん個人による一連の石器の発見劇のおかしさを書いている。Sさんには相当厳しい風当たりがあったように後で聞いたが、要するに一個人による石器の発見と、それを補償する複数の考古学者による発掘調査、さらに地質の降るさを保守する地質学者の発言と、三位一体で前期旧石器の発見物語がつくられている、という話だった。Sさんのところにも記者をすぐ出した。そこからTさんという、日本では数少ない旧石器を見ることのできる学者を紹介され、会って話を聞いた。一方で、藤村さんの調査日程に合わせて準備も進めた。

写真で(現場を)押さえることをまず考えたが、撮れたとしても本人に確かめなきゃいけない。写真の場合、言い逃れができるだろうから、映像が必要じゃないかと相談して、ビデオも容易しようと。テレビ局じゃないから、デジタルビデオをレンタル会社から2台借りた。さらに、真夜中にやられたらどうするかというこおで、暗視スコープも7、8万円で買った。かなり距離が離れていた場合に撮れるかという心配もあった。毎日映画社の人に相談したら、150メートルぐらい離れてもバッチリ映るものすごいカメラがあると教えてくれた。ただし、北海道では手に入らない。東京でレンタルがある。レンタル料が1日10万円で、「あなた方じゃ使いこなせないから、借りるなら僕が手伝ってもいいよ」と言われた。報道部長に伝えたら「構ねえから借りろ」って言う。でも1日10万円っていうのは・・・。「ちょっと様子を見てからにしようか」と、デスクと相談してペンディングにした。藤村さんが来たのは8月30日だった。それまでの下見で、何時ごろ明るくなるか、周りの民家が起き出すのが何時ぐらいか、発掘調査に携わっていた学生が夜中まで酒飲んで騒いでるが、何時になったら寝るかなど、時間の目安を確かめるために2晩ほど交代で徹夜して現場を見た。学生は午前2時ぐらいに寝る。藤村さんが出てくるとしたら2時過ぎだろうということで31日の夜(1日の未明)から張りこみを始めた。私も参加して、当初は記者3人、カメラマン1人。民家が1軒しかなく、畑をつぶした現やのような一角が総進不動坂遺跡だった。数十メートル離れたところにペンションがあって、そこにみんな寝泊りしている。総進不動坂遺跡は、年代は上高森ほど古くないが、十数万年前の地層といわれていた。そこで2年ぐらい前に藤村さんが初めて石器を何点か見つけた。原人が北回りで日本に渡ってきたことを示すという学者の見解などがあり、それなりに重要な遺跡ということだった。

交代しながら張りこみして、1日は何も動きが無かった。2日もなかった。暗視スコープがせいぜい5メートルぐらいしか見えず何の約にも立たないということが分かったが、近づきすぎて見つかったら元も子もない。本人以外の人に見つかっても、絶対に不審者だと思われる。警察に通報されるかもしれない。そのときには「盗掘情報があった」ということにしようと打ち合わせていたが、幸い見つからなかった結局、2日の昼間に石器が出た。何の動きもなかったのに出たわけで、これは「やっぱり本当に見つけてるんじゃないのか」と思った。見つけたのは藤村さんだというが、午前6時40分ごろまで見ていた限りにおいては、何も動きがなかった。そこで、いろいろな角度で見てみようと場所をもう1回工夫した。僕は藤村さんが宿から出てくるところを携帯電話で連絡する役割だった。そして9月5日の朝、藤村さんが現れて非常に不審な動作をするところを、取材班2人がカメラとビデオで捕らえた。僕は藤村さんの顔を良く知らなくて、後で現地の記者に確認したら「間違いない。藤村さんだ」と。非常に不審な動きをして、その日また石器が、まさにそこから出た。ビデオカメラを持っていた記者が「撮れました。ちょっと遠かったかもしれないが大丈夫だ」と言い、カメラマンも「距離があったが、望遠でなんとか押さえた」と言う。そのときはみんな「やった、やった」と、「これでスクープをものに出来る」と喜んで宿に帰った。それで「とりあえずビデオ見ようぜ」って再生したら、写ってないっていう(笑い)。「どうして」って聞いたら、「テープが入ってなかった」(爆笑)。PCカードとかいうので写ると思っていたらしい。それでテープを入れずに持って行った。PCカードは静止画しか写らないというのを誰も知らなかった(笑い)。写真もとにかく遠くて、本人がぼやっと写っているだけだった。そのときは本当に千載一遇の好機を逃したと思った。もう1日発掘が残っていたので気を取り直して同じようにやったが、藤村さんは現れなかった。これだけの労力をかけて、得た成果は写真1枚だったということだ。

翌日の6日に、その時点では石器が27点出たという記者会見があり、道内版の記事になった。その段階で、次にどうするかという判断を迫られた。北海道での発掘は、年内はない。報道部長は「この写真で藤村を落とす方法を考えよう」と僕に行った。知恵を絞ろうと。本人に写真をぶつけて、ほかはいろんな状況証拠で見とめさせることは出来ないか、と。私は「それは難しいでしょう」と答えた。藤村さん本人はカメラを腰にぶら下げてやって来て、埋めるような動作をした後に遺跡の写真を撮ってペンションに戻って行った。朝6時過ぎぐらいだったが、たぶん誰かに見咎められても「写真を撮ってた」と言えるように考えてきたのではないか。それだけ周到に準備をしていたということだと思う。写真を突きつけても、そう簡単に認める人物だとはとても思えなかった。正直言って僕は、北海道で来年やる発掘まで待つしかないという感じだった。しかし、デスクは違う意見で、「きっとまたやるだろう」と言う。次に予定していた遺跡は総進不動坂よりもっと注目を集めている、秩父の小鹿坂と上高森だった。そこまで粘れば撮れるかも知れないという意見だった。「恐らく、藤村はやってる」と。そこで報道部長が、継続してやろうと決断した。後で触れるが、これはかなり思い切った決断だったと思う。

取材班はそれぞれの持ち場に戻りながら、資料集めを続けることにした。9月下旬に小鹿坂の発掘予定があった。この張りこみは4人で10日間近く、毎日午前2時過ぎから7時前ぐらいまでやった。実は、このときには藤村さんの姿を現認することはできなかった。しかし石器は出た。柱穴とか土こうも出たはずだ。これは今もって我々には謎だ。どうやったのか。本当に出たのかも知れないし、我々の見てないところでやったのかも知れない。我々が引き上げた後でやるのも物理的には可能だった。後になって藤村さんと一緒に(発掘調査を)やってきた東北旧石器文化研究所理事長の鎌田さんが「毎日はフェアじゃない。張り込み中に藤村が現れても石器が出た事実があるのに、それを積極的に認めようとしない」といっていると聞いたが、事実として、不審な行動も含めて小鹿坂では現認できなかった。年内に残っているのは上高森だけになった。10月20日頃からということで、同じように準備をした。その間いろいろな方への取材を続けたが、やはり決定的な証言のようなものは出てこない。現場を押さえるしかないという気持ちは、取材班の中にどんどん広がっていった。上高森に賭けるしかないという思いで準備した。2カ所取材した経験から、失敗した教訓も踏まえて機材を充実させることにした。ビデオを持って相手を見ようとすると、向こうからも見えてしまう。こちらは身を隠しながら撮影できないかとカタログを見たら、いいのがあった。三脚をつけて、自分は身を隠してモニターを見ながらリモコンで自由に角度を変えられる。25万〜26万円したが、「構わん」ということで買った。上高森は秋も深まってきて、隠れる茂みもだいぶ葉が落ちて、葉っぱをかき集めて偽装しながら張りこんだらしい。

その場面は生々しく話せなくて申し訳ないが、10月22日の朝、張りこんで3日目ぐらいだったと思うが、自宅に連絡が来た。まさに最初の総進不動坂出失敗した記者が「撮れました」と。「本当か?」と思わず言った。「バッチリです。石器も写ってます」って言う。すぐデスクにも連絡をして、部長にも「撮れたみたいです」と伝えた。すぐにマスターテープを郵送させて札幌で見たら、本当に皆さんにお見せできないのが残念なんだけれども、1面の記事や特集面の連続写真で出したような映像があった。何度見てもこういう映像が撮れたのが信じられないというか、奇跡のようにしか思えなかったのが正直なところだ。発掘現場というのは掘り込んで深くなっているので、しゃがみこんで何かをやってるという映像だけでは本人に認めさせることはできなかったと思う。いくらでも言い訳ができる。遺跡に何十階も足を運んで見つけるというのがあの人の持論だったから、よほど決定的な映像でない限り、いくらでも否定できたと思う。ところが彼は、最後に何を思ったか、カメラを構えている正面に、本当に15mぐらいの距離のところに来た。カメラを構えていた記者は「来た!」って喜ぶより、見つかるんじゃないかと思って怖かったと言うぐらいだった。正面に来て、しかも後ろを向かずにカメラの方を見て、まさに撮ってくださいというようなアングルのところで、わずか1分半ぐらいだが、石器を埋め戻して、踏み固めて、そして戻っていった。その時にカメラとは反対側にある道路の方をしきりに気にしていた。つまり誰かが来ないか気にして、チラチラそちらに視線をやっている。カメラのある方にはまったく注意を払っていなかったために、我々は気づかれることなく撮影できたということだ。

さて、これで「絵」は撮れた。さあ、これをどう紙面化するかということが、その後の難問だった。22日に撮影し、記者会員が27日。まだ日があったので、埋めた物が間違いなく堀り出され、それが何十万年前の石器だと公式に発表させる。発表まで行って初めて、一連の工作が完結するだろう。だから、やはり記者会見を待とうということで、そのまま張り込みを継続した。記者発表があって、その日に藤村氏に取材を申し込んだ。もちろん、埋めたことについての取材だとは言っていない。一般的な、業績についての話を聞きたいと申し入れ、「11月5日だったら空いてる」という約束を取り付けた。11月3日、藤村さんに詳しい時間を打ち合わせる電話を入れたら5日は都合が悪いと言い出して、「もっと先にしてくれないか」という。実は、東京とは「Xデー」を4日にしようと打ち合わせていた。アポは5日だったので、1目早めることも含めて電話をさせたのに、5日は都合が悪く、4日も当初はダメだと言う。その記者が粘って交渉したら、4日でいいと彼が言って、午後7時の約束を取り付けた。

取材場所は仙台のホテルで、部屋は1泊8万5000円のスイートルーム。彼は7時5分に現れた。私は初対面だったので、名刺を渡して型通りに挨拶し、藤村さんがなぜ石器を見つけられるのかを4分ぐらい聞いた。彼は最近、「遺跡発見学の提唱」という小論文を書いていて、その中に見つけ方のコツみたいなものがある。その中身を聞いたりした。彼は上機嫌に話していたが、私はだんだん、死刑執行人みたいな気分になってきて、なかなか(本題を)切り出せなかった。実は別室も取っていて、そこにも取材陣が待ちかまえて、記者が入れ替わり立ち替わりドア越しに私たちのやり取りを聞いていた。朝刊の早版の締め切りは8時ごろで、7時から(取材を)始めるのは非常に厳しい時間帯だ。その上、私がなかなか聞き出さないもんだから相当いら立って、「何やってんだよ!」と言っていたようだ。午後7時45分、今でも覚えているが、意を決して「実は見てもらいたい映像がある」と切り出した。本人は、その時やはり少し顔色が変わったことをよく覚えているが、何か嫌な予感がしたかのように「えっ、何ですか?」と言ったっきり、もう映像の方が気になってしようがない様子だった。もう1人の記者がビデオをテレビにセットした。とにかくその場面をいきなり見せようと打ち合わせていたから、彼の、その1分半の映像をすぐ見せたわけだ。彼は激しく動揺し、それがありありと表情に出ていた。しばらく沈黙し、何を話しかけても答えない時間がしばらく続いて、10分ぐらいか、じっと目をつぶってうつむいたり、天井を見たり、そういう時間が過ぎていった。そして、「これは何をされているところなのか説明して下さい」というこちらの質問に対して、彼は「皆々ではない」と言った。つまり、全部埋めたわけではないという意味で言葉を発した。またしばらく沈黙があって、「鎌田さんに会いたい」と。こちらも、彼があまりにもショックで、何か予期しない行動に出るのではという不安もあったので、鎌田さんを呼んでくれと言われた時には迷わず連絡を取った。30分後に鎌田氏が現れるまでの間、彼はポツリポツリと話はするが、まとまって整理して話すことはなかった。

鎌田さんは、最初はともかく半信半疑というか、「そんことある訳ないだろう」と言っていた。実は藤村氏は鎌田さんが部屋に現れるとすぐに、「実は俺、とんでもないことをした。石器を埋めていたんだ」と打ち明けていた。しかし鎌田氏は「そんなことある訳ねえじゃねえか。プロが見てんだから、お前、何か被害妄想になってるんじゃねえか」と、そんなやり取りになった。こちらが「いや、映像があるんだ」と言って、映像を見せる。で、鎌田氏も言葉を失うというと陳腐な表現だが、しばらく絶句して、「これはもう決定的な証拠だ。何でこんなことしたんだ」となった。鎌田氏は藤村さんのことを慮って「プレッシャーがあったんじゃねえのか」と言うが、藤村さんはまだ鎌田氏が来る前に、ひと言「魔がさした」と言っていた。その「魔がさした」という言葉が東京本社に伝わって、その時点で紙面化のゴーサインのが出たと聞いている。本人が認めたと。

鎌田氏が来て、さらに30分ぐらいたって梶原さんという東北福祉大の教授が来た。梶原さんは東北旧石器文化研究所の理事で、藤村さんの発見した業績でいろんな論文を書いてきた方だ。3人になってからは鎌田氏の独壇場のようになった。彼は恐らくいろいろ考えた。藤村さんが認めたもの、認めなかったもの。認めたものは仕方ない。しかし藤村さんの業績がゼロになれば、自分たちの業績もゼロになってしまう。それで、いろんな意味深なことを言っている。「こうなったら、変な言い方だけど、傷口を小さくすることを考えよう」とか。そして「藤村、お前はっきり言え。やったものはやった。それで『すみません』と謝れ。やってないものはやってないと言え」と言う。藤村さんは「何でも聞いて下さい。お話しします」と、ある程度整理してポツリポツリとまた話し出した。そして上高森も、今年の分については、穴とごくわずかの石器を除いて自分が埋めたものだと認めた。総進不動坂については非常に苦しげな表情で「今年見つかった分は,すべてダメです」と言った。それ以外については、「埋めたものではない。去年までのものも含めて、小鹿坂もそうだが、本当に出たものだ。これだけは信じてほしい」と繰り返し強調していた。その時に彼は「破門してくれ」とか「死にたい」とかいろんなことを言っていたが、「鎌田さん、俺再起するよ」というようなことも言う。鎌田氏が「これからの罪滅ぼしは、みんなの見てる前で本物をちゃんと掘り出すことだ」ということまで言っていて、その後の事態の進展に対しては、あまり深刻に考えてなかったという節もあった。話が前後するが、総進不動坂についても藤村さんは当初否定していた。しかし、「我々は総進不動坂でもあなたが不審な行動を取るのを見てるんだ」とぶつけると、また苦しげ表情になって沈黙する。「総進不動坂でも埋めたんじゃないですか」と言うと、こっくりとうなずく。そういう段階を踏んで認めていった事実がある。最初は本当に出たものもあるという言い方だったのが、その後になって「実はすべてダメです」というふうに言葉を変える。総進不動坂についてはそういう告白の経緯をたどった。

インタビューを終えて、翌日の記者会見の約束をして、午前0時前だったと思うが、藤村さんが立ち上がり「Xさん、きょうお話したことを明日、全部皆さんに話します。どうもありがとう」と言われた。これは私も予期しない言葉で、ちょっとびっくりして何て答えていいか分からず、「頑張って下さい」といった記憶がある。なぜ「ありがとう」と言ったのか、今もって考えている。本人がどういう思いでこういうことをやってきたのか、昔から、最初からやっていたのか、途中からそういうことに走ったのか、これは本当に謎のままだ。ただ一つ言えるのは、彼は「総進不動坂で魔がさした」と言った。病気のことも言っていた。「体調がずっとすぐれなかった」、あるいは「石器がある場所が最近分からなくなった。でもみんなが自分に出してくれという期待をかけるからプレッシャーになった」と。藤村さんが告白するまでの経過は以上のようなことだったが、取材を振り返って、なぜこういう取材ができたのか、手法やジャーナリズムのあり方との関わりを自分なりに考えてきた。

始まりは報道部長の決断だった。一連の経過を振り返ると、この取材の一番高かったハードルは報道部長が決断できるかどうかだったと思っている。毎日新聞の方はピンとくる話だと思うが、このスクープを放ったのが北海道報道部だと聞いた時、たぶん社内の驚きは相当なものだったと思う。取材部隊としては最も記者の層が薄い非力な部署と言っていいし、しかも私を含めて取材班の記者には、取りたてて特ダネ記者がいるわけでもない。東京や大阪のような広いフィールドでの取材経験があるのもデスク1人だけだった。その意味での驚き、インパクトは社内で相当あっただろうと思う。当初、総進不動坂の取材に1週間ぐらいかけて、同時並行的に関係者の取材もしていたので、それだけで100万円近い取材費を費やしていたと思う。しかし結果が出ない。普通の企画取材などでは、ある程度の時間をかければ出来・不出来はあっても何らかの形は残る。しかし今回の取材についてはゼロか100のどちらかしかない。真ん中の50というのは無い取材だった。決定的場面が撮れなければどうにもならない。疑惑として取り上げるのも、どんな反撃に遭うか分からないからできなかっただろう。その意味で、まず報道部長の決断というものがあった。「金はいくらかかってもいい、俺が責任を取ればいいだけのことだ」と言ってくれた。そして総進不動坂で写真1枚の成果に終わったときに、さらに取材を継続するかどうかがまた一つのターニングポイントだったと思う。この時点で再び、継続のゴーサインを報道部長が出した。確か400万円ぐらいの取材費を別枠の予算で取った。テレビ局ならともかく、新聞社にとって金の問題はかなりシビアで、400万円の予算を取って取材するのは大変なことだ。しかも結果がゼロかもしれないリスクを背負っている。新聞社の、特に毎日新聞って言っていいかどうか分からないが、システム上はなかなか考えにくいことだった。小鹿坂でも、取材をして成果がなかった。たぶん、その時点で取材費は200万円ぐらいに膨らんでいた思う。しかし、その時も報道部長は「全然気にすることない。ダメ元でやってるんだから」と我々に一切プレッシャーをかけなかった。例えは悪いが、パチンコ屋で必ず大当たりが来ると信じてデジタルを回し続けているようなものだ(笑い)。この先に大当たりがあるのかと疑いながら、来なかったら傷口は深いなあと思いながら、続けてきたということだ。

隠されている事実を暴く調査報道の場合、藤村さんと一緒に発掘に携わってきた人はたくさんいるわけだから、何か不審な行動をするところ、あるいは埋めた場面を見たことがないか、そういう証言が出てこないかをまず取材してみるのがオーソドックスな手法だろう。だが、今回は周辺からの積み上げはほとんどやらなかった。もしやっていれば、「藤村信者」は多かったから、毎日新聞が変なことを聞いて回っていると本人に伝わったかもしれない。藤村批判をしている人たちには当然、背景を知るために取材をしたが、彼らからは「朝に不審な動きをするという話があるから、朝が狙い目じゃないか」とか、「前の晩に宴会をやって発掘スタッフが酔いつぶれて寝こんでる朝が一番可能性が高い」とか、そんな話しか出なかった。「怪しい」とか「疑惑」というだけでは、この取材は結果を出すことができなかったと今でも思っている。もちろん、「これだけやったんだから、ダメでも何らかの形で紙面化すべきじゃないの」という人はいたが、私はどのように紙面化できるのか、まったくイメージが湧かなかった。ちょっと話はそれるが、私は労働組合の専従を3年間やって、報道現場から離れている時間が長かった。その時に、今の日本の新聞が非常に危機的な状況にあるということを考える時間的余裕を得た。北海道支社の印刷部門を切り離して別会社にするという、しんどいテーマがあったときで、それだけ今の新聞社を取り巻いている環境はどんどん厳しくなっている。昔みたいに新聞だけ刷っていれば経営が成り立つ状況ではなくなってきている。日本の新聞は牧歌的な経営環境というか、再販制度もあり、国際競争に晒されることもそれほど無く、しのぎを削っているように見えて実は経営的な競争関係はない。一方で新聞経営者は、ジャーナリズムのレベルをどう向上させていくかについて、あまり関心を払ってこなかったんじゃないかとも考えた。無読層と呼ばれる人たちをはじめ新聞離れがどんどん進んで、札幌の北大周辺の下宿に行っても、大学生が新聞をほとんど取っていない。それどころか最近は「報道被害」が叫ばれて、権力が介入してくる、規制してくるという動きまで出ている。その中でどれだけ新聞を守れという声が市民の中にあがっているかというと、私は非常に心もとないと思う。新聞の未来を切り開いていくには、読者に信頼され、支持されることしかない。「新聞は面白いじゃないか」「なかなかやるねえ」と、大事な仕事をしてることをどれだけ認知してもらえるかだろう。読者が少なくなる状況を思うときに、今回のスクープを越えるネタがどんどん、願わくば毎日新聞から出てほしい。毎日新聞でなくても、やはり新聞というメディアから出てほしいと思っている。鎌田理事長や鎌田さんの奥さんからも、今回の報道は「ひどい」と言われた。「総進不動坂で気づいていたのなら、声をかけてくれれば上高森遺跡のねつ造は防げたかもしれない」と言われたし、読者からも批判が少なからずあったと聞いている。我々は、藤村さんの私生活にカメラを向けたことはなかったので、その場で鎌田さんに反論した。「こちらは公に開かれた空間である遺跡にカメラを構えていただけだ。そこに藤村氏が勝手に現れただけだ」と。藤村さんを「つけ回した」わけではない。例えば、うわさでは「藤村氏は自宅で石器を製造している」という話もあった。自宅を狙ってみるということもあり得るとは思うが、そういうことは一切していない。本人に気づかれないように掘っているという意味では隠し撮りかもしれないが、手法としてアンフェアだったという認織はない。社内でも「問題ではないか」という議論はなかった。読者からは「特集面で写真を十数枚も使ったり、民間人をあそこまでさらしものにしていいのか」という反響があった。確かに藤村さんは政治家などの公人とは言えないが、考古学の世界では超有名人だ。あえて顔をぼかしたり、匿名で扱う必要はない。報道に問題があったとは思っていない。